私たちも戦場だった——いすみ地域の戦争遺跡見学

妻の明子です。

 

この本は、私がかつて読んだ本の中でベスト10に入る本です。

 

太平洋戦争も終盤。日本軍の劣勢が顕著になった昭和20年。米軍の本土上陸を阻止するための最後の激戦地、硫黄島をめぐる物語。栗林中将の穏やかで平和的な人柄と、硫黄島の戦いの壮絶さのコントラストが鮮明で、何度読んでも感動します。

硫黄島の戦いでは日本軍は島全体に地下穴を掘りまくって要塞化します。そこに潜伏して上陸してきたアメリカ軍を迎え撃つのですが、次第に弾薬も食糧も尽きていきます。最期は指令系統もなくなり、一人一人がゲリラとなって「鬼神を哭かしむる」死闘を繰り広げた後、3月26日に陥落します。アメリカ軍の砲撃はすさまじく、硫黄島に生えていた植物は全て枯れ、島全体の地形が完全に変わってしまうほどだったといいます。日本軍20,933名のうち、なんと20,129名が死亡。。。。

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硫黄島で栗林中将が死闘を繰り広げた大きな理由が「本土決戦を遅らせる」というものでした。

でも結局、米軍上陸前に日本は無条件降伏したので、本土決戦は実現しませんでした。

降伏していなければ、硫黄島のような戦いがいすみや東京で繰り広げられてもおかしくなかった。。。ということです。

今回のいすみ市主催歴史教室の戦争遺跡見学会は、そんなバーチャルリアリティを体感できる、実に見応えのあるプログラムでした。

沖縄や硫黄島が陥落するかなり前から、日本軍は連合軍の本土上陸作戦(コロネット作戦)に備え、首都圏防衛を目的に(米軍の上陸地点と想定された)海岸に基地や拠点を大急ぎで造っていました。

昭和18年くらいから、いたるところに格納庫や基地用の穴が掘られたり砲撃台が造られて、人知れず、千葉県全体がすっかり要塞化していたのです!米軍は九十九里浜から上陸して東金街道を通って首都東京に入るというシナリオがありましたから!

千葉県全体の要塞化。説明は今回の歴史教室の本吉正宏先生。

チーバくんの背中からお尻までが要塞化。ていねいにご説明くださった歴史教室の本吉正宏先生。

 

まずいすみ市の太東崎陣地跡を見学しました。太東湊に面した崖に掘られた横穴。中には相当広い通路が広がっていました。
img_1501   ゲリラ戦に向いた地形。。。。

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穴を通り抜けると忽然と、太東海岸から九十九里浜を遠望する茂みが!九十九里浜から上陸する連合軍を、日本軍はここから大砲を打って迎撃しようとしていたのでした。

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次に太東飛行場跡。昭和20年5月に完成したがあまり使われず、終戦までに着陸したのはたった3機だったとのこと。今はすっかり飛行場の面影はありません。

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次に、大原に移動し、大原新場の空襲跡を見学しました。住宅地の一角にある石碑に機銃弾の痕跡が残っていました。生々しい。。。。威嚇のための空襲だったんでしょうか。

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同じく大原で、回天(かいてん)小浜基地跡を見学しました。回天とは大型魚雷を改造して艦艇に特攻する人間魚雷のこと。戦争末期の1944年に開発され、小浜基地は圏内唯一の回天発信基地として設営されたそうです。ですが、6機あった配備予定の魚雷は輸送船が攻撃されて小浜に到着することはなく、結局、出動しないまま終戦を迎えたとのこと。大原が空襲に遭ったのは、こうした軍事拠点があることが米軍に知られていたからなのでしょうか。

 オバマ大統領と同名の小浜。

オバマ大統領と同名の小浜。

回天を一機分を格納するだけの大きさの穴。ゴミ捨て場みたいになっていて、ゴミ捨て禁止の札が。

回天を一機分を格納するだけの大きさの穴。今はゴミ捨て場みたいになっていて、ゴミ捨て禁止の札が。

次に見学隊のバスは南下、御宿市を通過して勝浦に入りました。勝浦では、鵜原(うばら)の震洋(しんよう)基地跡を見学しました。

回天が人間魚雷なら、震洋はモーターボートの特攻隊です。昭和20年5月に編成された第55震洋隊は総員224名。震洋艇は54隻。震洋は「人間兵器」といわれ、フィリピン、沖縄、本土の主に太平洋側に配備され、米軍の上陸に備えられました。出撃やその準備中などで全体で約2,500人が犠牲なったとのことですが、8月に終戦を迎えたことから、今回、私たちが見学した鵜原からの出撃は結局なかったようです。

震洋格納庫の入り口の一つ

震洋格納庫の入り口の一つ

鵜原海岸は実に風光明媚、アマルフィ海岸を彷彿とさせる。ここから震洋が出撃する予定だったか。。。

鵜原海岸は実に風光明媚、アマルフィ海岸を彷彿とさせる。ここから震洋特攻艇が出撃する予定だった。。。

鵜山は大正時代にセレブ向けの別荘地=理想郷の開発が進められた場所としても有名だそうです。

鵜山は大正時代にセレブ向けの別荘地=理想郷の開発が進められた場所としても有名。今度ハイキングしようと思います

 

広島、長崎の原爆投下を経た昭和20年8月15日の無条件降伏はあるいは遅過ぎたのかもしれません。でもギリギリで本土決戦が回避されたという意味では、これ以上遅くなくてつくづく良かったとも言えるでしょう。

本土決戦が行なわれていたら、きっと、いすみや勝浦の基地や格納庫は少しは役立ったでしょう。でも、これらが米軍の上陸を防げるほど盤石だったとはとても思えません。人間魚雷や特攻モーターボートはどれだけの効力を発揮できたのでしょうか。

数十万の米軍が上陸し、日本人が決死の思いで竹槍で応戦していれば、いすみも東京も焼け野原、私の父も母も死に絶え、そもそも私はこの世に生まれてなかった可能性が高い。。。。。。。
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先人が手仕事で開けた穴の壁のつるはしの跡を眺めながら、穴を掘った人たちの苦労や回天や震洋の紅顔の搭乗員の面影に思いを馳せました。

そして戦後71年目の冬晴れの一日、いすみでこうやって平和の中で歴史教室に参加dけいる幸せを感じました。

 

いすみ市の歴史教室は1月、2月も続きます。楽しみです。

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